第三回 | 「剣の宝庫 草薙館」の開館に向けて|剣の宝庫 草薙館

「剣の宝庫 草薙館」の開館に向けて 福井款彦

第三回 奉納刀 熱田宝刀の事例

熱田神宮の宝物は、その総てが熱田の大神へ捧げられた品々である。

 博物館や美術館の収蔵品については、一般にCollection(コレクション)と言われる事が多い。collect(蒐集する)という動詞の名詞化したものであり、「蒐集された」から「収蔵品」という意味合いになる。
 しかし、熱田神宮の宝物は、集めたのではなく、集まったのであって、その点が大切であり、この事を理解しなくてはその本質に迫れない様に思う。
 かつて英国から見えた研究者が、頻りにCollectionを連発しているのに違和感を覚えて、語彙力に乏しく不適切ながらPresentだと注意した。
 幸い、日本文化に関心ある紳士、何とかその意をくんでくれたが、後から翻訳家などに尋ねてみると、単語だけでそうした意味まで理解して貰うのは難しく、A collection of sacred objects dedicated(presented) to Shinto deities.とか、Dedicated(Presented) obujects to Shinto deities.[神道の神々に捧げられた神聖な品々(収蔵品群)]などと具体的な対象や経緯を説明する必要があるらしい。
 実はこの説明、外国の人だけではなく、奉納当事者の立場や気持ちを身近な事として理解しづらくなった現代の日本人にも必要ではないかと思っている。
 熱田神宮宝物館収蔵の刀剣類も、申すまでもなくその総てが熱田の大神様に捧げられたものである。社寺によっては、各々霊験灼かな信仰と相俟って奉納される場合(1)があり、また大きな社寺の場合、庇護している権力者が、その代替わり毎などに奉納(2)する例が知られる。熱田の場合はそのどちらかだという顕著な例(3)は見られないが、数量は一社としては膨大(4)である。
 以下に、代表的な奉納刀の図版を掲げながら、その特色や傾向を紹介したい。

初代伯耆守信高の脇指

初代伯耆守信高の脇指

 元来、奉納に当たって新たな拵えに納めたり、奉納の文書などが添えられるのが正式なものらしいが、現存宝刀中にそれと思しきものは数点を数えるに過ぎません。ただ、奉納時にたがねで刀身へ神号、年紀、居住地、身分氏名などを切り付けた物が約四割近くあり、熱田神宮の奉納刀を考える上に大きな示唆を与えてくれます。奉納時に刀身にこのような切付銘を施す風習がいつ頃から始まったのかは定かではありませんが、恐らく南北朝頃より確認(5)され、室町時代には多く見られるようになります。当時は既に刀の地刃を鑑賞する風があったようなので、奉納銘文を刀身に切り付ける行為は、少なくともそうした美術認識とは異なった価値観を有する信仰心に立脚し、それがより優位性を持っている事を表すのだと考えています。
 写真の脇指は江戸時代の地元尾張刀工初代信高の作ですが、最も典型的というか、基本的な切付銘が施された一例です。切付銘の詳細を分析すると、今日では「奉納」と言う熟語に集約されていますが、実際には寄進、奉進、奉上、奉献、奉掛、奉進納、献上、進上、託貢、施入、神物などの熟語が見られること。七月七日や五月五日などの節日や八朔などに奉納される傾向が高かったこと。具体的な祈願内容に言及しているものは少ないこと。切付銘を奉納者の意を受け代わって施した銘切師の存在(6)が垣間見えること等がわかります。

国宝来国俊の短刀

国宝来国俊の短刀

 奉納刀の中には国の文化財指定を受けた物が二十口あり、一神社で所蔵する数としては最多を誇ります。その中で国宝(新国宝)の指定を受けているのがこの短刀です。鎌倉時代後期の山城国の来国俊の作で、その数ある遺作の中でもやや大振りで、制作された当時に近い健全な姿が残り、地鉄や刃文だけでなく、彫刻にもその流派の特徴がみられ「熱田の来国俊」とも呼ばれて有名なものです。正和五年(一三一六)の制作年紀もあり、国俊七十六歳の晩年作と判ります。その貴重性は、同作国宝の短刀が他に一口だけという点からも理解されることでしょう。ところが、この短刀は、江戸時代後期既に奉納されていた事が記録(7)から知られますが、それ以上の事、つまり奉納者とその年月日などが明確でありません。文化財として、現在の最高ランクに位置付けられる物が、名も知れぬ人物による奉納であったとは、言い知れぬロマンを抱かしてくれるのです。

宗吉作太刀

宗吉作太刀

 「奉納 熱田大神宮 真継 応永二十六年(一四一九)六月十七日」という熱田宝刀最古の切付銘を持つのがこの宗吉の太刀であります。この日、熱田神宮では正遷宮、つまり社殿を造替(修復)し、神様にお遷り願う祭典が斎行された特別な日(8)でした。遷宮に際し然るべき立場の者から太刀等が献上される慣習は古くからありますので、その日付まで切られた銘からも恐らく遷宮を背景とした奉納であったと考えられます。作者の宗吉は鎌倉時代初期から中期に活躍した備前古一文字派の刀工で同名複数工の存在が考えられ、本作は華やかな丁子乱れの傑作で、鎌倉中期に近い作とみられます。宗吉は室町時代には贈答の品として高い格式ある刀剣と認知されていましたから、未詳ながら奉納者真(9)継も然るべき人物、あるいはその関係者でしょう。
 なお、宗吉作の太刀は重要文化財に二口しか指定されていませんが、二口とも熱田神宮の所蔵です。他の一口には「アツタシンモツヲカサワラサマノセウ興昌天正三年正月吉日」と切付銘があり、この太刀の方が古雅な出来で制作時代も古く、鎌倉初期とられています。

	熱田国信

熱田国信

 南北朝時代の山城の刀工で、大和と相州気質を組合せて独自の作風を樹立しているのが長谷部派であります。代表工は国重ですが、その弟と伝えるのがこの国信です。太刀の遺作は兄弟共にごく僅かで、平造で身幅一段と広く、大きく寸が延びて反りのついた小脇指が殆どです。それは南北朝の延文~貞治(一三五六~六七)頃の姿であり、その姿を健全に残しているのが熱田所蔵刀の特徴で、同時代の代表的作品として刀剣関係専門書等によく掲載されるものです。刀工の国信自身が熱田に来て作刀・奉納したとも伝えられ「熱田国信」と称されて江戸時代から有名、後掲の「あざ丸」と「蜘蛛切丸」と共に「熱田三剣」「熱田の三腰」とも称され、「別而御大事(10)」といい、同じ箱に入れて大切に保管され、熱田神宮の宝刀としては先ずこの三口が挙げられていたようです。
 刀工自身の奉納については昔の作り話のように聞こえますが、長谷部国信は出身が大和で、相州鎌倉に出て大成し、後に京の五条坊門猪熊に居を構えたという刀工です。何度か鎌倉と京の間を往き来したことでしょう。熱田に寄って奉納したとの伝えには蓋然性があるように思います。また熱田神宮にはこの「熱田国信」の他にも重文と県文の国信短刀が存しますが、曽てはその他にもまだ二口、即ち計五口もあったようです。

熱田康継

熱田康継

 身幅広い刀身表裏へ竹に筍と梅樹とを大胆に彫った華やかなこの脇指も作者名に「熱田」を冠して「熱田康継」と呼ばれて有名なものです。初代康継は近江国出身で、のち越前に移住、結城秀康に抱えられました。その初名は「肥後大掾下坂」で、本多成重の周旋で慶長十から十一年の間に江戸に召され、家康と秀忠両御所の御前で鍛刀し、その賞として葵紋及び「康」の一字を賜り、名を「康継」に改めたといいます。この脇指は、その最も誇るべき履歴を茎に刻し、熱田神宮に自ら奉納したもので、代々江戸幕府の抱工として活躍した康継家の初祖研究上欠くことの出来ない貴重な一口です。残念ながら、制作年紀はありませんが、慶長十八、九年の作と推測されています。
 なお、この康継のなかごには目釘孔がありません。普通は柄を装着して目釘を打って固定して用いるので孔を開けるのです。その事から、俗世の者等の使用を拒み、当初より神への捧げ物として制作され、奉納された事を意味すると解釈されています。
 因みに熱田宝刀には目釘孔の開けられてないものが他にも存し、近年の神前奉納鍛錬の奉納刀も目釘孔を開けていないのが殆どで、その考えを踏襲するものです。
 一部に武器庫的性格の強い神社奉納刀もありますが、熱田宝刀にはその傾向は見られません。一度奉納されると先ずは外に出ない一種「タイムカプセル」みたいなもので、故に「『銘鑑』漏れ」と言われるような世に知られない刀剣が存していて、『銘鑑』を補足する貴重史料の宝庫(11)でもあるのです。

あざ丸と蜘蛛切丸

あざ丸と蜘蛛切丸

 奉納刀の中には様々な伝承を持っているものも少なくありません。
 痣丸あざまるは、源頼朝の暗殺を企てた平家の遺臣で、しころ引きで有名、晩年は目の病に悩まされた悪七兵衛景清の所持・奉納と伝える大磨上無銘の脇指です。痣丸の名の由来は、景清の顔にあった痣が刀身に映り込んだからと伝えています。時代下って戦国時代に、時の大宮司千秋紀伊守(季光)が織田信秀に従い、戦でこの「痣丸の太刀」を用いて戦死、その後に陰山掃部助と丹羽長秀の二人の武将の手に渡りましたが、共に目のアクシデントに悩まされ、所持者に祟る刀として終に熱田神宮へ還納されたという曰く因縁の一口(12)です。
 いま一口は、源家重代の宝刀「蜘蛛切丸くもきりまる」と同じ名号で通称される吉光在銘大振りの短刀です。勿論源家云々との伝えと作者吉光の時代とが合いませんので別物です。そこで、室町時代の刀剣書(13)に、その所持者(=主)を狙っていた毒蜘蛛を、自ら抜け出て斬りかかり、主を助けた吉光短刀の話しがあり、(吉光の短刀は主=所持者を護るとして重宝されていましたから、)本作の所伝もこれに類するものと考えられています。
 共に、刀剣に対して日本人が抱く神秘性をよく表した伝承だと思います。この二口は、先の「熱田国信」と共に代表する熱田宝刀として世に知られており、美術的・歴史的にも興味深い作品であり、現在は愛知県の文化財指定を受けております。

太刀と刀

太刀と刀

 拝観者からの質問で多いのが、刀剣の展示の向き、どうして刃が上を向いたり下にしたりしてあるのかという内容です。日本刀の歴史は千年以上、時代によってその身に帯する方法に違いがあった。長い刀剣の場合、室町時代初期頃までは太刀が基本で、太刀を佩くと言い、刃を下にして腰に吊して用いていました。その後は、腰帯に刃を上にして差(指)して用いる刀(打刀)が主流になります。佩いたり差したりした場合の外側(身体側でない方)が刀身の表になり、作者は銘を茎の表に切るのが普通です。故に、作者銘もあるのは見えるし、それぞれの時代を踏まえた故実に従って展示しているのであって、謂わば展示の決まりなのです。
 一方、為すべき決まり事とは反対に、してはいけない決まり事、即ち展示のタブー(taboo禁忌)もある。筆者が奉職間もない時に、ある先輩から熱田神宮では決して刀剣のきっさきを向かい合わせに展示しないのだと教わった。その時別段詳しく説明があった訳ではないが、その意味するところを勝手に察し得て、さすが熱田神宮だと深く感銘した。

挿図地図記号

挿図地図記号

 その解釈とは、今使われていないが、二〇一二年までは古戦場を表す地図記号があり、それは刀を交差させたものだった。抑も刀剣で合戦を表現するのは如何なものか、元来「武」も解字すると「戈」を「止」めるの意(14)で不戦の精神を意味するのだから、少なくとも神への捧げ物として使わぬ宝刀をその様に展示することは忌避すべきだと解釈した次第である。
 勿論、刀剣の鋒は「顔」とも言われる大切な部分、損傷を最も忌み嫌う箇所でもあり、怪我の危険性も高い所、向かって左がなかごで右側は鋒、同じ方向に陳列する事が単に安全だよと伝えたかっただけかも知れないが、「武」と「不戦」の哲学を弁えたタブーだったと筆者は信じて止まない。この禁忌、もちろん慣習法であるが、今後も熱田神宮では承け継がれ、間違っても鋒を向かい合わせにすることの無い様、只管に願うばかりです。
 ところで、西洋白磁のマイセンの窯印(15)が剣を交差させていて古戦場の地図記号によく似ている。その意味まで詳しく知らないが、お国柄というものだろうか、興味深い。

東條英機奉納太刀と山本五十六が頒った短刀

東條英機奉納太刀と山本五十六が頒った短刀

 奉納は過去のことではなく、今日でも様々な品々が神前へ奉られる。その意味では遺物などではなく、現に神々への捧げ物、神聖な品々だと、我々も心すべきである。故に奉納する人にも必要でなくなったからとか保管に手を焼くので納めるというのは筋違いである事を弁えて頂ければ有難い。そこで刀剣類奉納の場合、神への奉り物として相応しい最低限の約束を二つ提示するようにしている。一つは熱田の大神様への信仰・信心をお持ちであること、二つは奉納に当たって刀身の手入れが行き届き美しく綺麗な状態であること、もし錆や曇りなどがあれば研磨してから奉納頂くことである。前者は当然の条件、後者も例えば大根をお供えするとき、泥が付いたままでなく、綺麗に洗ってからと同じ意であるし、前回で言及したように研磨は刀剣類の禊祓でもあるからです。
 献納奉告祭を済ませて宝物館へ移管され展示にも活用されるようになると、また異なった対応を取る場合が出てくるのは仕方ない。美術的史料的価値の高い物の展示頻度が高くなるのは当然だが、そうでないものは収蔵庫の隅を指定席として動かない場合が多い。あとは如何にそれらにも光を当ててお出まし頂けるか、ひとえに展示企画者の手腕次第ということになるであろう。
 ところで過去三十数年の間で立ち会った数多くの奉納刀の中で、殊に思い出深いのが写真で掲げた二口です。その詳しい経緯は省略しますが、太刀は昭和十六年一月に、時の陸軍大臣東條英機が奉納したもの、戦後長らく行方不明でしたが、終戦五十年目の年に世に出て明らかとなり、改めて奉納されたものです。短刀は山本五十六元帥が海軍大将当時に、御上(昭和天皇)より賜った餞別を用いて、二人の刀匠に海軍短剣に収まるべく各十口打たせ(16)、艦隊司令部の幕僚に贈ったものの一口です。頒賜された方のご子息様からの奉納でありましたが、その年が奇しくも山本長官没後六十年目であったと知った時、総身に鳥肌が立ちました。
 筆者は常日頃より神社は文化のセンターであると思っていますが、ある意味では個人の信仰を超えて歴史的意義あるものの献納をお受けし、その献納者に代わって、モノと共にその歴史を後世に伝える責務もあるのだと考えています。

(文化研究員)

次回は「真柄の大太刀 太郎・次郎・等々」

※(補注)

(1)法隆寺西円堂の堂内には室町期から夥しい数の刀剣が立てかけられるように奉納されていた。それは耳の薬師様としての信仰に拠るものとの解釈がある。
(2)将軍では東京の日枝神社や伊勢の神宮に顕著である。
(3)古くは大宮司家と姻戚にあった源頼朝(鎌倉幕府)からの奉納が記録にある。その後に室町幕府から遷宮時に神宝奉献があったが、近世以降に将軍や藩主による定期的な刀剣類奉納はない。敢えて言えば地元尾張の刀工による自身作奉納が十数例あり、刀工の信仰を集めていた可能性はある。
(4)神社の蔵刀数で恐らく最多なのは奈良県の談山神社で、その数約二四〇〇口(明治二十一年調)という。その次が八二二口(昭和三年調)の熱田神宮と考えられる。
(5)全国的な調査に拠るものでないが、国指定品の画像を総覧すると、鷲宮神社の備中吉次太刀の刀身に「武州太田庄鷲山大明神」「永和二年卯月十九日 義政」と切付銘がある。
(6)詳しくは拙稿「奉納切付銘の諸相-奉納銘文の分析と整理-」(社報『あつた』第190号)参照。
(7)寛政元年の研磨目録とみられる「熱田神宝圖書」(鶴舞中央図書館蔵)に、書写された茎の形と「来国俊 長八寸三歩 焼スク刃平作 両面剣棒樋有」との注記から年紀は書き漏らしているが特定できる。
(8)「応永二十六年大宮御遷宮供奉人差定」「応永二十六年大宮遷宮祝詞」「熱田宮年代記」(『熱田神宮史料』造営遷宮編上巻所収)
(9)この真継は、嘉吉三年に国信の短刀も奉納している。その切付銘から三河住人であった事が知られる。
(10)朝日文左衛門重章の日記『鸚鵡籠中記』に「蜘蛛切丸・痣丸・熱田国信の三腰、別而御大事と云々」とある。
(11)拙稿「「銘鑑漏れ」等に資する宝刀」(社報『あつた』第244号)参照。
(12)『信長公記』巻首「景清あざ丸刀の事」(新訂増補『史籍集覧』武家部22所収)
(13)一色家の蜘蛛切藤四郎の事。内容は本間順治が戦前の熱田神宮社報『御稜威』に紹介しているが、具体的には能阿弥本『銘尽』の一本を指すのであろう。
(14)解字としては戈を持って止まる足(=行く)が正しい解釈、但し武の用例には「武人としての行動規範」や「戦乱をなくすこと」の意味がある。
(15)贋作防止のため一七二三年から用いられているという。
(16)酒井繁正と遠藤光起刀匠。刀身の彫刻「皇国興廃」「繋在此征戦」と茎の署名「山本五十六」は制作依頼時に刀匠に与えた五十六の自筆原稿に拠る。はばきにも表裏に「御賜」「頒」と彫ってその経緯を表している。